雨の底にある駅
雨の日にだけ現れる地下駅を訪れた女性が、忘れていた約束と祖母の手紙に出会う静かな幻想譚。
その駅は、雨の日にしか現れない。
そう教えてくれたのは、十年前に亡くなった祖母である。まだ小学生だった真琴は、祖母の家の縁側で、ぬるくなった麦茶を飲みながら、その話を聞いた。
「本当にあるの」
真琴が尋ねると、祖母は庭の紫陽花を見たまま、小さく笑った。
「あるとも。けれど、探して見つかる場所じゃない。向こうが必要だと思った人の前にだけ、ふっと口を開けるんだよ」
「駅なのに、口を開けるの」
「雨の底にある駅だからね」
その言い方がおかしくて、真琴は笑った。祖母も笑った。雨は軒先から糸のように落ちて、庭石の上で細かく跳ねていた。
それから長い年月が過ぎた。
祖母の話は、ほとんど忘れていた。
忘れていたはずだった。
真琴がその駅を見つけたのは、三十歳の秋である。
勤めていた会社を辞めた翌日だった。
辞めた、と言っても、胸を張れるようなものではない。限界が来て、机の上に私物を詰めた紙袋を置き、上司に短い挨拶をして、逃げるように帰った。それだけである。
何か大きな失敗をしたわけではなかった。誰かにひどく傷つけられたわけでもない。ただ、毎朝起きるたびに、体の奥に湿った砂が詰まっているような感覚があった。メールの通知音が鳴るだけで息が浅くなり、会議の予定がカレンダーに並ぶだけで手のひらが冷たくなった。
周囲から見れば、些細な疲れに見えたかもしれない。けれど真琴にとっては、それ以上歩くと足の裏から自分が崩れてしまうような疲れだった。
退職の手続きが終わった翌日、真琴は何をするでもなく電車に乗った。
行き先は決めていなかった。窓の外には細い雨が降っていた。ビルのガラスには曇った空が映り、遠くの高架は鉛筆で薄く引いた線のようにかすんでいた。
乗り換え案内も見ず、来た電車に乗り、降りたいと思った駅で降りた。
そこは知らない町だった。
駅前には古い商店街があり、傘を差した人々が早足で通り過ぎていく。シャッターの閉まった店が多く、開いている店も、客を待っているというより雨が止むのを待っているように見えた。
真琴は折りたたみ傘を開き、目的もなく歩いた。
靴底から水が染みてくる。コンビニで買った透明な傘が、歩道の端に何本も捨てられていた。雨は強くも弱くもならず、ただ同じ調子で町を濡らしていた。
商店街を抜けると、小さな川に出た。
川沿いの道には人影がなかった。水面は濁っていて、雨粒が無数の輪を作っている。川の向こうには古い団地が並び、ベランダの洗濯物が慌てて取り込まれた後のように、物干し竿だけが寂しく突き出ていた。
真琴は橋を渡りかけて、ふと足を止めた。
橋の下に、階段があった。
川沿いの遊歩道へ降りるための階段かと思ったが、違った。階段は橋の影の下からさらに地下へ続いている。入口には錆びた看板が立っていた。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
「雨底駅」
真琴はしばらく看板を見つめた。
雨底駅。
そんな名前の駅を聞いたことはなかった。地図アプリを開いてみたが、現在地の周辺に駅らしき表示はない。地下鉄の入口なら、もっと目立つ案内があるはずだった。
橋の上を車が通るたび、足元に鈍い振動が伝わってくる。
真琴は傘をたたんだ。
階段の奥から、ひんやりとした空気が上がってきていた。雨の匂いとは少し違う。濡れた石と、古い切符と、遠い場所に置き忘れた花のような匂いである。
降りてはいけない気がした。
けれど、降りなければならない気もした。
真琴は手すりに触れ、ゆっくりと階段を降りた。
階段は思ったより長かった。
途中から外の雨音が遠ざかり、代わりに水が滴る音だけが響くようになった。壁には古い白いタイルが貼られていたが、ところどころ剥がれ、下地の暗い色が見えている。天井には丸い照明が並び、眠そうな光を落としていた。
ようやく階段が終わると、そこに小さな改札があった。
駅員室はなかった。自動改札機もない。木製の古い改札口がひとつあり、その横に黒い制服を着た男性が立っていた。
年齢はよくわからない。若くも見えるし、年老いても見える。帽子のつばが影を作り、目元ははっきりしなかった。
「お待ちしておりました」
男が言った。
真琴は後ろを振り返った。もちろん誰もいない。
「私ですか」
「はい。片瀬真琴様ですね」
名前を呼ばれ、真琴は息を呑んだ。
「どうして私の名前を」
「切符に書いてあります」
男は改札の小さな台から一枚の切符を取り上げた。
それは薄い水色の切符だった。雨に濡れているわけではないのに、表面がかすかに光っている。そこには確かに、片瀬真琴、と印字されていた。
行き先の欄には、何も書かれていない。
「これは何ですか」
「乗車券です」
「どこへ行くんですか」
「お客様がまだ降りていない場所へ」
真琴は眉をひそめた。
「意味がわかりません」
「よく言われます」
男は少しだけ口元を緩めた。
改札の向こうにはホームへ続く通路があった。奥から微かな風が流れてくる。海辺の駅のような湿った風である。
「帰ってもいいんですか」
「もちろんです。雨底駅は、無理にお客様をお乗せすることはありません」
「じゃあ、どうして私を待っていたんですか」
「お忘れものがあるからです」
その言葉に、真琴は胸の奥を軽く叩かれたような気がした。
「忘れもの?」
「はい。長く置かれております」
「何を」
「それは、お客様がご確認ください」
男は切符を差し出した。
真琴は受け取らずに、その水色の紙を見つめた。馬鹿げていると思った。知らない地下駅で、知らない駅員に名前を呼ばれ、忘れものがあると言われている。普通なら、すぐに引き返すべきだった。
けれど真琴は、足を動かせなかった。
忘れもの。
その言葉が、心のどこかに引っかかっていた。
会社に置いてきたものなら、もうすべて持って帰った。ロッカーにも机にも、何も残していない。もっと前のものなら、覚えていない。忘れたものを忘れたままにして生きることに、真琴は慣れてしまっていた。
真琴は切符を受け取った。
紙は冷たかった。
「電車はすぐ来ますか」
「雨が深くなれば」
「雨が深くなる?」
「はい。ここは雨の底ですから」
その言い方に、真琴は祖母の声を思い出した。
雨の底にある駅だからね。
胸の奥で、遠い縁側の雨音がよみがえった。
ホームには誰もいなかった。
壁も柱も古く、床は濡れていないのにしっとりと光っていた。線路の向こうは黒い闇で、どこまで続いているのかわからない。ホームの時計は三時十二分を指したまま止まっている。
ベンチに座ると、体の力が抜けた。
真琴は切符を膝の上に置いた。水色の切符には、いつのまにか行き先が浮かび上がっていた。
「花野町」
知らない駅名だった。
だが、見覚えがある気もした。
花野町。
真琴はスマートフォンで検索しようとした。しかし画面は真っ黒なままだった。電源ボタンを押しても反応がない。故障したのかと思ったが、不思議と焦りはなかった。
トンネルの奥から、風が吹いた。
次に、遠くで車輪の音がした。
やがて闇の中に二つの小さな光が現れた。電車は音もなく近づき、ホームの前に滑り込んだ。
銀色の車体に、薄い雨の筋のような模様が走っている。行き先表示には、花野町、と出ていた。
扉が開いた。
中には誰もいなかった。座席は青い布張りで、古いがよく手入れされている。窓の外にはホームではなく、雨の降る夜のような景色が広がっていた。まだ乗ってもいないのに、車内の窓の向こうだけが別の場所につながっているようだった。
真琴は一瞬ためらった。
背後を振り返ると、駅員の男が通路の入口に立っていた。彼は何も言わず、小さく頭を下げた。
真琴は電車に乗った。
扉が閉まる。
電車はゆっくりと動き出した。
窓の外には、町が流れていた。
ただし、それは現在の町ではなかった。
小さな駄菓子屋、赤い郵便ポスト、舗装の割れた細い道。ランドセルを背負った子どもたちが、水たまりを避けながら歩いている。軒先には朝顔の鉢が並び、遠くで犬が吠えていた。
真琴は窓に顔を近づけた。
その町を知っていた。
祖母の家があった町である。
十年前、祖母が亡くなってから、一度も訪れていない町だった。両親は家を処分し、真琴は葬儀の後、忙しさを理由に記憶ごとそこから離れた。
電車は雨の中を走っているはずなのに、窓の外には夏の日差しがあった。けれど空のどこかから、絶えず雨音が聞こえている。
向かいの座席に、いつのまにか少女が座っていた。
白いワンピースを着て、膝の上に黄色い傘を抱えている。髪は肩のあたりで切りそろえられ、頬にはまだ子どもの丸みが残っていた。
真琴はその少女を見て、言葉を失った。
小学生の頃の自分だった。
少女は窓の外を眺めながら、足をぶらぶらさせていた。
「ねえ」
真琴が声をかけると、少女はこちらを見た。
「何」
「あなた、片瀬真琴?」
「そうだけど」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「お姉さんも、真琴っていうの」
真琴は答えられなかった。
少女は少し考えてから、ああ、と納得したようにうなずいた。
「未来の人?」
「たぶん」
「ふうん」
少女はそれほど驚かなかった。子どもの頃の自分は、こんなにも簡単に不思議なことを受け入れたのだろうか。
「どこへ行くの」
少女が尋ねた。
「花野町」
「私も」
「何をしに」
「おばあちゃんの家に行くの。今日、約束してるから」
「約束?」
「うん。雨の日にしかできない約束」
少女は膝の上の黄色い傘を撫でた。
真琴はその傘を覚えていた。祖母が買ってくれた傘である。柄の部分に小さな猫のシールを貼っていた。中学生になる頃には恥ずかしくなって、押し入れの奥にしまった。
「どんな約束」
真琴が尋ねると、少女は少し困った顔をした。
「忘れちゃったの?」
その一言が、静かに胸に沈んだ。
忘れちゃったの。
電車の窓に映る自分の顔が、少しぼやけて見えた。
「ごめん。忘れたみたい」
「じゃあ、思い出せばいいよ」
少女は当然のように言った。
「思い出すのって、そんなに簡単じゃない」
「でも、なくなったわけじゃないでしょ」
少女は窓の外に視線を戻した。
電車はいつのまにか田んぼの間を走っていた。稲の葉が風に揺れ、ところどころに水が光っている。空は晴れているのに、窓には雨粒が当たっていた。
その光景を見て、真琴はひとつ思い出した。
祖母の家に泊まりに行くたび、真琴は雨を待っていた。祖母が、雨の日だけ特別な遊びをしてくれたからである。押し入れから古い箱を出し、中にしまわれた切符や葉書や小さな鍵を見せてくれた。
祖母はそれを「なくしものの箱」と呼んでいた。
「人はね、物だけじゃなくて、いろんなものをなくすんだよ」
祖母はそう言っていた。
「気持ちとか、約束とか、言えなかった言葉とか。なくしたことに気づかないものほど、長いことどこかで待っている」
真琴は、その話が好きだった。
好きだったのに、忘れていた。
電車がゆっくり減速した。
車内放送が流れた。
「次は、花野町。花野町です。お降りの方は、お忘れものにご注意ください」
少女が立ち上がった。
「行こう」
真琴も立ち上がった。
扉が開くと、湿った夏草の匂いがした。
花野町駅は、小さな無人駅だった。
ホームの屋根は低く、木の柱には古い時刻表が貼られている。線路の向こうには一面の田んぼが広がり、その奥に低い山が見えた。雨は降っていない。けれど足元には水たまりがあり、そこには灰色の空が映っていた。
少女は改札を抜け、迷いなく歩き出した。
真琴はその後を追った。
駅前には誰もいなかった。自動販売機の横で風鈴が揺れている。道端の草は伸び放題で、白い蝶が二匹、雨上がりの空気の中を漂っていた。
懐かしい道だった。
祖母の家へ続く道である。
けれど真琴の記憶より、道は少し狭く見えた。石垣も、用水路も、夏みかんの木も、そのままなのに小さかった。自分が大きくなったからだと気づくまで、少し時間がかかった。
「ねえ」
少女が振り返った。
「未来の私は、おばあちゃんと仲良し?」
真琴は返事に詰まった。
仲良しだった。少なくとも、子どもの頃はそう信じていた。夏休みのたびに祖母の家へ行き、縁側で昼寝をし、畑で採れたトマトを冷やして食べた。祖母は真琴の話を急かさず聞いてくれた。両親にも友達にも言えないことを、真琴は祖母にだけ話せた。
けれど中学生になると、だんだん足が遠のいた。
部活が忙しい。友達と遊ぶ。塾がある。理由はいくらでもあった。高校生になると、祖母からの電話にも短く答えるだけになった。大学に入ってからは、正月に顔を出すか出さないか程度だった。
最後に会ったのは、祖母が入院する少し前である。
その日、祖母は真琴に何かを渡そうとした。
けれど真琴は、アルバイトの時間があると言って、受け取らずに帰った。
それを今、思い出した。
胸の奥が冷たくなった。
「仲良しだったよ」
真琴は答えた。
嘘ではない。だが、全部でもなかった。
少女は満足そうに笑った。
「よかった」
その笑顔が、真琴にはまぶしかった。
祖母の家は、坂を少し上がった場所にあった。
黒い瓦屋根の平屋で、庭には柿の木と紫陽花がある。門柱の表札には、祖母の名字がまだ残っていた。実際にはもう取り壊された家である。今は別の家が建っているはずだった。
少女はためらわず門を開けた。
「おばあちゃん、来たよ」
声をかけると、奥から返事があった。
「はいはい。今、手を拭いてるからね」
真琴の足が止まった。
その声を、十年ぶりに聞いた。
台所から祖母が出てきた。
白髪を後ろでまとめ、薄い藤色の割烹着を着ている。記憶の中の祖母より、少し若い。けれど笑うと目尻に深いしわが寄るところは同じだった。
祖母は少女を見て、それから真琴を見た。
驚いた様子はなかった。
「あら、ずいぶん遠くから来たね」
そう言って、祖母は穏やかに笑った。
真琴は声を出せなかった。
祖母は玄関に上がるよう手招きした。
「濡れたでしょう。タオルを出すから、上がりなさい」
「おばあちゃん」
やっとのことで、真琴は呼んだ。
声が少し震えていた。
「はい」
「私、」
言葉が続かなかった。
謝りたいことが多すぎた。会いに行かなかったこと。電話に出なかったこと。最後に渡そうとしてくれたものを受け取らなかったこと。葬儀で泣けなかったこと。祖母の家がなくなると聞いたとき、胸の奥でほっとしてしまったこと。
何から言えばよいのかわからなかった。
祖母は何も急かさなかった。
ただ、昔と同じように待っていた。
「私、忘れてた」
真琴は言った。
「何をだい」
「おばあちゃんのことも、この家のことも、約束のことも。たぶん、大事だったものを、たくさん」
祖母はゆっくりうなずいた。
「人は忙しいと、忘れるようにできているんだよ」
「でも、忘れたくなかった」
「そうかい」
祖母は真琴の肩に手を置いた。
その手は温かかった。
「なら、まだ大丈夫だね」
居間には、昔と同じ丸いちゃぶ台が置かれていた。
畳の匂い、柱時計の音、庭から入る湿った風。すべてが記憶の中からそのまま出てきたようだった。
祖母は麦茶を三つ出した。
少女は座布団に座り、嬉しそうに麦茶を飲んでいる。口の上に水滴をつけたまま、庭の紫陽花を見ていた。
「今日の約束、覚えてるかい」
祖母が少女に尋ねた。
「うん」
少女は元気よくうなずいた。
「なくしものの箱を見る日」
「そうだったね」
祖母は押し入れを開け、古い木箱を取り出した。
真琴はそれを見た瞬間、胸が締めつけられた。
なくしものの箱。
蓋には小さな金具がついていて、角は少し擦り切れている。子どもの頃、宝箱のように思っていた箱だった。
祖母が蓋を開ける。
中には、古い切符、貝殻、錆びた鍵、色あせた写真、片方だけの手袋、小さな鈴、白い封筒などが入っていた。
「これは誰の忘れもの?」
少女が貝殻を手に取った。
「海へ行く約束を忘れた人のもの」
「これは?」
錆びた鍵を持ち上げる。
「帰る場所を忘れた人のもの」
「じゃあ、これは?」
少女は白い封筒に手を伸ばした。
祖母は少しだけ表情を柔らかくした。
「それは、まだ開けちゃいけない」
「どうして」
「今日の真琴には、まだ早いから」
少女は不満そうに唇を尖らせた。
真琴は、その封筒から目を離せなかった。
白い封筒。
それを見た記憶がある。
病院の廊下。薄いカーテン。祖母の細くなった手。祖母はベッドの横の引き出しから、同じような封筒を出そうとしていた。
「真琴、これを」
祖母はそう言った。
けれどそのとき、真琴のスマートフォンが鳴った。アルバイト先からだった。急に人が足りなくなったので早く来られないか、という連絡だった。
「ごめん、また今度聞くね」
真琴はそう言って立ち上がった。
祖母は封筒を手にしたまま、少し寂しそうに笑った。
「そうかい。気をつけて行くんだよ」
それが、祖母と交わした最後のまともな会話だった。
真琴は両手を膝の上で握りしめた。
「おばあちゃん」
「はい」
「その封筒、私の?」
祖母は答えなかった。
代わりに、少女を見た。
「真琴、庭で紫陽花を見ておいで。雨のあとだから、きれいだよ」
「えー、今?」
「今」
祖母の声は優しかったが、逆らえない響きがあった。
少女は少し不満そうに立ち上がり、庭へ出ていった。縁側に置かれた黄色い傘が、風に揺れている。
居間には、祖母と真琴だけが残った。
柱時計が静かに時を刻んでいた。
「封筒の中身を、知りたいかい」
祖母が尋ねた。
「知りたい」
「知ると、戻れなくなるかもしれないよ」
「どこへ」
「忘れていられた場所へ」
真琴は黙った。
忘れていられた場所。
そこは確かに楽だった。祖母のことを思い出さなければ、後悔もなかった。会社を辞めたことも、疲れて動けなくなったことも、全部ただの現在の問題として扱えた。
けれど、本当はずっと何かが胸の奥で鳴っていた。
聞こえないふりをしていただけだった。
「戻れなくていい」
真琴は言った。
祖母は白い封筒を真琴の前に置いた。
封はされていなかった。
真琴はそっと中身を取り出した。
一枚の便箋が入っていた。
そこには、祖母の丸い字で短く書かれていた。
「真琴へ。
疲れたら、無理に強くならなくていい。
あなたは昔から、平気な顔をするのが上手だった。
でも、平気な顔をしすぎると、自分でも本当に平気だと思ってしまう。
雨の日は、少し立ち止まりなさい。
雨は、急ぐ人の足元にも、迷っている人の肩にも、同じように降る。
だから、雨の中では誰も遅れていない。
いつか大人になったあなたが、自分を責めすぎたら、この言葉を思い出してほしい。
あなたが帰ってくる場所は、ひとつでなくていい。
けれど、あなた自身の中にだけは、必ず小さな縁側を残しておきなさい。
おばあちゃんより」
読み終えたとき、真琴の視界は滲んでいた。
涙が落ちて、便箋の上に小さな丸い跡を作った。
「ごめん」
真琴は言った。
「ごめんね、おばあちゃん。私、受け取らなかった。最後だったのに。おばあちゃん、きっと渡したかったのに」
祖母は何も言わなかった。
真琴は子どものように泣いた。
会社で泣けなかった。辞めるときも泣けなかった。祖母の葬儀でも、うまく泣けなかった。それなのに今、失くした時間の底から水が湧き上がるように、涙が止まらなかった。
祖母は真琴の背中をゆっくり撫でた。
「真琴」
「うん」
「渡したかったものは、今、渡せたよ」
「でも、遅すぎる」
「遅すぎることばかりじゃない。人の心には、雨で戻れる道が少しだけ残っている」
「本当に?」
「少なくとも、今日はそういう日だね」
祖母は穏やかに言った。
庭から少女の声がした。
「おばあちゃん、紫陽花にカタツムリいる!」
「はいはい、今行くよ」
祖母は立ち上がろうとして、ふと真琴を見た。
「一緒に見るかい」
真琴は涙を拭き、うなずいた。
庭の紫陽花は、雨を含んで重そうに咲いていた。
青、紫、白に近い淡い色。葉の上では、小さなカタツムリがゆっくり進んでいる。少女はしゃがみ込み、飽きもせずそれを眺めていた。
「遅いねえ」
少女が言った。
「でも、ちゃんと進んでる」
祖母が答えた。
真琴はその言葉を聞きながら、庭石の上に落ちる雫を見ていた。
あの頃の自分は、早く大人になりたかった。何でもひとりでできる人になりたかった。誰にも迷惑をかけず、間違えず、強く、ちゃんとした人に。
そうなれば、寂しさも不安も消えると思っていた。
けれど大人になるということは、強くなることだけではなかった。忘れることに慣れることでもあった。寂しさをしまい、疲れを隠し、助けてほしいと言う前に笑うことでもあった。
真琴は、ずっと平気な顔をしてきた。
その顔の下で、小さな自分が黄色い傘を抱えたまま、雨の日の約束を待っていたのだ。
「ねえ、未来の私」
少女が振り返った。
「大人って楽しい?」
真琴は少し考えた。
楽しい、と簡単には言えなかった。けれど、楽しくない、とも言いたくなかった。
「難しいよ」
「ふうん」
「でも、悪いことばかりじゃない」
「何があるの」
「自分で遠くまで行ける。好きなものを買える。夜更かしもできる」
「いいなあ」
「それから、間違えたことを、あとから少し直せることもある」
少女はよくわからないという顔をした。
「じゃあ、大人になっても雨底駅に来られる?」
「たぶんね」
「じゃあ大丈夫だ」
少女は笑った。
その笑顔を見て、真琴は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
すべてが許されたわけではない。
過去は変わらない。祖母と過ごせたはずの時間は戻らない。最後の日に封筒を受け取らなかった事実も消えない。
けれど、それを抱えたまま歩くことはできるのかもしれなかった。
忘れたままではなく、思い出したまま。
庭の向こうで、風が吹いた。
紫陽花の花が小さく揺れた。
祖母が空を見上げた。
「そろそろ雨が上がるね」
その言葉と同時に、家の輪郭が少し薄くなった気がした。
畳の匂いも、庭の光も、少女の白いワンピースも、少しずつ遠ざかっていく。
「おばあちゃん」
真琴は慌てて祖母の手を取った。
「また会える?」
祖母はその手を包み返した。
「雨の日に、ちゃんと立ち止まれたらね」
「私、忘れないかな」
「忘れるかもしれない」
祖母は正直に言った。
「でも、忘れてもいいんだよ。大事なのは、思い出せる場所をなくさないことだから」
真琴はうなずいた。
目の前が白く滲んでいく。
少女が黄色い傘を差し出した。
「これ、持っていく?」
真琴は首を横に振った。
「それは、あなたのものだから」
「じゃあ、未来で待ってて」
「うん」
「ちゃんと待っててね」
その声が遠くなった。
雨音が近づいてきた。
気がつくと、真琴は電車の中にいた。
向かいの座席には誰もいなかった。
膝の上には、白い封筒が置かれていた。
真琴はそれを両手で包んだ。封筒はほんのり温かかった。中には祖母の手紙が入っている。夢ではない。少なくとも、真琴にはそう思えた。
窓の外には、暗いトンネルが続いていた。
やがて車内放送が流れた。
「次は、雨底駅。雨底駅です。お降りの方は、お忘れものにご注意ください」
電車が止まり、扉が開いた。
ホームには先ほどの駅員が立っていた。
「お帰りなさいませ」
真琴は電車を降りた。
「これを、持って帰ってもいいんですか」
白い封筒を見せると、駅員はうなずいた。
「お客様のものですから」
「なくしものだったんですね」
「はい」
「私は、何をなくしていたんでしょう」
駅員は少し考えた。
「ご自分に戻るための、休み方でしょうか」
その答えは、奇妙なほど胸に落ちた。
「雨底駅には、また来られますか」
「必要であれば」
「必要じゃなければ?」
「そのほうがよろしいかと」
駅員は淡々と言った。
真琴は小さく笑った。
「確かに」
改札を抜ける前に、真琴は振り返った。
「あなたは、ずっとここにいるんですか」
「はい」
「寂しくないんですか」
「ここには、お忘れものがたくさんありますので」
駅員はホームの奥を見た。
「寂しさも、誰かが取りに来るまでは、預かりものです」
真琴はその言葉を覚えておこうと思った。
改札で水色の切符を渡すと、切符は駅員の手の中で静かに消えた。
「外はまだ雨ですか」
真琴が尋ねた。
「少しだけ」
「そうですか」
「お気をつけて」
駅員は深く頭を下げた。
真琴は階段を上った。
上へ行くほど、街の音が近づいてくる。車の走る音、傘を打つ雨音、遠くの踏切の音。現実の音だった。
橋の下へ出ると、空は薄く明るくなっていた。
雨はほとんど止んでいた。川の水面には、まだ細かな波紋が残っている。橋の下の階段を振り返ると、そこにはもう何もなかった。ただ濡れたコンクリートの壁があるだけだった。
看板も、入口も、雨底駅も消えていた。
真琴はしばらくそこに立っていた。
スマートフォンは何事もなかったように電源が入り、通知がいくつか届いていた。会社からの事務連絡、友人からの短いメッセージ、母からの不在着信。
真琴はすぐに返事をしなかった。
川沿いのベンチに座り、白い封筒をもう一度開いた。祖母の手紙は、やはりそこにあった。文字は少し滲んでいるが、読むことはできる。
あなた自身の中にだけは、必ず小さな縁側を残しておきなさい。
真琴はその一文を指でなぞった。
小さな縁側。
それが何なのか、まだはっきりとはわからなかった。けれど、わからないままでもいいと思えた。
しばらく休もう。
ちゃんと眠ろう。
母に電話をしよう。
祖母の墓参りにも行こう。
働くことも、暮らすことも、また考え直せばいい。急いで答えを出さなくてもいい。雨の日には、誰も遅れていないのだから。
真琴は立ち上がった。
雲の切れ間から、淡い光が川に落ちていた。濡れた道は静かに光り、商店街の方から焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
駅へ戻る途中、道端の水たまりに黄色いものが映った気がして、真琴は足を止めた。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、雨上がりの風が吹いていた。
それから数日後、真琴は実家へ帰った。
母は急な帰省に驚いたが、深く理由を聞かなかった。父は少し不器用に、夕飯は鍋でいいか、と尋ねた。真琴はうなずいた。
夜、母と二人で台所に立った。
白菜を切りながら、真琴は祖母の話をした。雨の日の駅のことは言わなかった。言えば母を困らせるだけだと思ったからである。ただ、祖母から手紙を受け取ったこと、ずっと読めずにいた気がすること、墓参りに行きたいことを話した。
母は黙って聞いていた。
やがて、包丁を置いて言った。
「おばあちゃんね、最後まであなたのことを心配してた」
「うん」
「真琴は大丈夫って顔をするから、本当に大丈夫なのか、わからないって」
真琴は鍋の湯気を見つめた。
「私、自分でもわからなかった」
「そう」
「お母さんにも、ちゃんと言えなかった」
母は少しだけ笑った。
「親だからって、何でもわかるわけじゃないのよ」
「うん」
「でも、言ってくれたら聞くことはできる」
その言葉は、祖母の待ち方に少し似ていた。
真琴は小さくうなずいた。
「仕事、辞めた」
「そう」
「しばらく、何も決まってない」
「そう」
母は責めなかった。
ただ、鍋に豆腐を入れながら言った。
「じゃあ、しばらくちゃんと食べなさい」
その言い方があまりにも普通で、真琴は笑ってしまった。
少し泣きそうにもなった。
翌日、三人で祖母の墓へ行った。
墓地は山のふもとにあり、細い坂道を上ったところにある。雨は降っていなかったが、前日の湿り気がまだ土に残っていた。墓石を洗い、花を供え、線香に火をつけた。
煙がまっすぐ上がっていく。
真琴は手を合わせた。
言いたいことはたくさんあった。けれど墓前では、長い言葉にならなかった。
おばあちゃん、手紙を読んだよ。
それだけを心の中で言った。
すると、どこかで小さな風鈴のような音がした。
顔を上げると、墓地の端に紫陽花が咲いていた。季節外れのはずなのに、ひと房だけ淡い青色を残している。
母が不思議そうに言った。
「まだ咲いてるのね」
真琴はその紫陽花を見つめた。
葉の影に、小さなカタツムリがいた。
ゆっくり、ゆっくりと進んでいる。
「本当だ」
真琴は静かに言った。
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
冬が来る頃、真琴は小さな図書館で働き始めた。
正職員ではない。週に四日の受付と整理の仕事である。収入は以前より少なくなったが、朝、息ができないほど苦しくなることは減った。
図書館は古い建物で、雨の日には窓枠が少し鳴った。児童書の棚の近くには低い椅子があり、子どもたちが靴を脱いで本を読む。真琴は返却された本を棚に戻しながら、ときどき祖母のことを思い出した。
雨の日には、休憩時間に窓際の席へ座るようになった。
温かいお茶を飲み、何もしない時間を少しだけ作る。スマートフォンを見ない。予定を詰めない。ただ、雨が地面に落ちるのを眺める。
それはとても小さな習慣だった。
けれど真琴にとっては、自分の中に縁側を作るための作業だった。
ある雨の午後、図書館に一人の女の子が来た。
黄色い傘を持ち、髪を肩で切りそろえていた。小学校三年生くらいだろうか。女の子は児童書の棚をしばらく見上げてから、受付にいる真琴のところへ来た。
「あの」
「はい」
「なくしものの本ってありますか」
真琴は一瞬、手を止めた。
「なくしものの本?」
「なくしたものが、どこに行ったかわかる本」
女の子は真剣な顔をしていた。
真琴は少し考えた。
「そういう題名の本は、すぐには思いつかないけど」
「ないですか」
「でも、なくしものが出てくるお話なら、いくつかあると思う」
女の子の顔が少し明るくなった。
「探してくれますか」
「もちろん」
真琴は棚の間を案内しながら、数冊の本を選んだ。失くしたぬいぐるみを探す話、遠い町へ手紙を届ける話、忘れられた庭を見つける話。女の子は一冊ずつ表紙を撫で、最後に青い表紙の本を選んだ。
「これにします」
「いい本だよ」
「お姉さん、読んだことあるの?」
「うん。たぶん、昔」
女の子は貸出カードを差し出した。
手続きを終えると、女の子は本を胸に抱えた。
「ありがとう」
「雨、気をつけてね」
「うん」
女の子は入口へ向かった。
自動ドアが開き、雨の匂いが図書館に入ってくる。
その背中を見送りながら、真琴はふと声をかけたくなった。
忘れても、大丈夫だよ。
思い出せる場所を、どこかに残しておけばいい。
けれど、それは言わなかった。
女の子には、まだ早い気がしたからである。
代わりに、真琴は静かに手を振った。
女の子も振り返り、黄色い傘を開いて、雨の中へ歩いていった。
ガラス扉の向こうで、傘の色が淡く揺れる。
真琴は窓際の席に目を向けた。
雨は細く、やわらかく降っていた。
どこか遠くで、電車の走る音がした気がした。
それは地上の線路の音かもしれなかったし、雨の底を走る電車の音かもしれなかった。
真琴は耳を澄ませた。
音はすぐに雨に溶けた。
それでよかった。
今日の雨は、どこへも急がずに降っていた。