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月を畳む駅

海辺の廃駅に残された十二枚の切符をめぐる、静かな現代ファンタジー。思い出すことと忘れることのあいだで、ひとりの女性が駅を残す意味を見つめていく。

その駅には、時刻表がなかった。

海沿いの町の西の端、崖の下に月畳駅はある。白い壁は潮風でくすみ、赤い瓦はところどころ色が抜けていた。ホームには草が伸び、錆びた線路は山影の手前で途切れている。

列車は、もう二十年以上来ていない。

それでも駅舎の時計だけは動いていた。改札口の上に掛かった丸い壁時計である。黒い針は、誰も急がせることなく、こち、こち、と静かに時を刻んでいる。

三浦佳乃は、その音を聞くたびに少しだけ息を詰めた。

父が最後に直した時計だった。

佳乃は三十七歳で、町役場の観光課に勤めている。観光課といっても、仕事の多くは地味である。祭りのポスターを刷り、空き家の問い合わせに答え、案内板の修理を手配し、町内会からの苦情をなだめる。

月畳駅の管理も、その仕事のひとつであった。

週に二度、佳乃は駅へ行く。鍵を開け、床を掃き、ベンチを拭き、雨漏りを確かめる。訪れる人は少ない。たまに旅人が写真を撮りに来るくらいで、待合室の空気はいつも静かに古びていた。

その月畳駅をどうするか、役場で正式に話し合われることになったのは五月の終わりだった。

「保存か、解体か、民間活用か。今年中に方針を決めたいそうです」

後輩の佐伯透が、会議資料を机に置いた。

「民間活用って?」

佳乃が尋ねると、佐伯は資料をめくった。

「駅舎を改装してカフェにするとか、展望施設にするとか。町長は、ただ残すだけでは予算がつかないって言ってました」

「カフェにするような場所じゃない」

「でも、解体よりはいいんじゃないですか」

佐伯の言葉は正しかった。駅舎は傷んでいる。屋根は一部沈み、ホームの端は腐食している。残したいという気持ちだけで建物は残らない。

その日、会議には地元の建設会社の代表も来ていた。久世航平という男で、佳乃より少し年上だった。背が高く、よく日に焼けている。町の古い建物を改修して宿や店に変える仕事をしていて、近頃は県外からも声がかかっているらしい。

久世は、月畳駅を「月畳テラス」という観光施設にする案を出した。

「駅舎の形は残します。けれど、今のままでは危険です。待合室をカフェにして、ホーム側には海を眺めるデッキを作る。古いレールは一部だけ残す。収益が出れば、維持費もまかなえます」

会議室の空気は悪くなかった。町長も、議員も、納得したようにうなずいていた。

佳乃だけが、言葉を飲み込んでいた。

月畳駅は、にぎわうための場所ではない。そう思った。けれど、それをどう説明すればいいのか、わからなかった。

会議のあと、久世が廊下で佳乃に声をかけた。

「三浦さんは、反対ですか」

「反対というより、少し違う気がして」

「違う?」

「駅には、駅の静けさがあります」

久世は笑わなかった。

「静けさだけでは、建物は守れません」

「わかっています」

「わかっているなら、現実的に考えたほうがいい。あの駅は、思い出を置いておくには古すぎる」

その言い方に、佳乃は少しだけ引っかかった。

「久世さんは、あの駅に思い出があるんですか」

久世は返事をしなかった。

ただ一度だけ窓の外を見て、それから軽く頭を下げて去っていった。

夕方、佳乃は月畳駅へ向かった。

坂道を下ると、海が開ける。湾は穏やかで、防波堤には白い鳥が並んでいた。駅舎の前に車を停め、鍵を開ける。

待合室に、人がいた。

年配の男である。紺色の上着を着て、灰色の帽子を膝に置いている。背筋はまっすぐで、古い写真の中から抜け出してきたような人だった。

「すみません。鍵、閉まっていたはずですが」

佳乃が言うと、男は小さく会釈した。

「ええ。閉まっておりました」

「では、どこから」

「列車から降りました」

佳乃は言葉を失った。

窓の外には、草に埋もれた線路がある。列車など来るはずがない。

「ここは廃線です」

「存じております」

男は穏やかに言った。

「ただ、月が畳まれる日は、少しだけ道が戻るのです」

佳乃は改札口の上の時計を見上げた。午後五時十二分。秒針は静かに動いている。

父は三年前の冬、この待合室で倒れた。工具箱を足元に置き、時計を直した直後だったという。発見されたとき、時計は五時十二分を指して止まっていた。父の死後、なぜかまた動き出したが、佳乃はその理由を誰にも聞けなかった。

「お名前は」

「葛西と申します」

男は答えた。

「三浦時計店のご主人には、何度もお世話になりました」

佳乃の指先が冷えた。

「父を知っているんですか」

「ええ。この駅の時計は、よく迷いましたから」

「時計が迷う?」

「止まった時計は、止まった時間を抱え込みます。ご主人は、それをほどく方でした」

葛西は懐から小さな鍵を取り出した。古びた真鍮の鍵である。

「時計の裏に、小さな箱がございます。ご主人が預けたものです」

「父が?」

「はい。ただし、開けるなら覚悟が要ります」

「覚悟?」

「時間は、返せばよいというものではありません。返された人が救われるとは限らない。思い出したことで、かえって立ち止まる人もいます」

葛西の声は静かだったが、重かった。

「父は、それをしていたんですか」

「しておりました。だからこそ、苦しんでもおられた」

佳乃は鍵を見つめた。

「なぜ、今なんですか」

「この駅が、残るか消えるかの時期に来ているからです」

葛西は待合室の外へ目を向けた。

「駅は、人の声より先に、決められかけたことを聞きます」

佳乃が一歩近づいたとき、待合室を風が抜けた。

扉は閉まっていた。窓も閉まっていた。

それなのに、葛西の姿は消えていた。

ベンチの上には、真鍮の鍵だけが残っていた。

夜、佳乃は駅へ戻った。

家に帰るつもりだった。夕食の材料も買ってある。けれど、バッグの内ポケットに入れた鍵の重さが消えなかった。

駅舎の中は暗い。懐中電灯をつけると、ベンチと改札と壁時計が淡く浮かび上がる。昼間と同じ場所のはずなのに、夜の駅はどこか別の場所のようである。

佳乃は事務室から脚立を出し、壁時計を外した。

裏側に、小さな木箱が取り付けられていた。これまで何度も掃除してきたのに、気づかなかった。箱には真鍮の鍵穴がある。

鍵は、ぴたりと合った。

中には十二枚の切符が入っていた。

紙のようで、紙ではなかった。薄い光を折り畳んだような札である。月色、雨色、夕焼け色、海の底のような青。どれも手のひらに載るほどの大きさで、角が少し擦れていた。

一枚には、古いスーパーのレシートが貼りついていた。
一枚には、赤い糸が結ばれていた。
一枚には、子どもの字で「ごめん」と書かれていた。
一枚には、砂が一粒、封じ込められていた。
一枚には、小さな錆びたねじが挟まっていた。

そして、いちばん下にあった雨色の切符に触れたとき、佳乃の胸が小さく痛んだ。

自分のものだと、なぜかわかった。

箱の底には、父の字で書かれた紙が入っていた。

佳乃へ。

ここにある切符は、誰かが置いていった時間である。
戻りたい時間ではなく、置いたままでは前へ進めない時間だ。

無理に返さなくていい。
知ることが、いつも救いになるとは限らない。
忘れたまま生きていける人もいる。
それでも、誰かが待合室に来たら、少しだけ待たせてやってほしい。

時計は急がせるためではない。
待てるようにするためにある。

父より。

佳乃は紙を読み終え、長く息を吐いた。

父らしい手紙だった。大切なことを書いているようで、肝心なことは書かれていない。なぜ黙っていたのか。なぜこの駅に通い続けたのか。なぜ死ぬ前に、何も言わなかったのか。

答えは、どこにもなかった。

そのとき、ホームで靴音がした。

佳乃は振り返った。

ホームに、人が立っていた。

学生服の少女。買い物袋を提げた老婦人。作業着姿の青年。幼い男の子を連れた母親。皆、声を立てずに線路の向こうを見つめている。

月は海の上にあった。

満月から少し欠けはじめた月である。その光が水面に伸び、波に揺れながら何枚にも重なっていた。まるで薄い布を折り畳んだようだった。

遠くから、列車の音が近づいてきた。

錆びた線路が淡く光る。草が揺れる。闇の奥に丸い灯りが浮かび、古い一両編成の列車がホームへ入ってきた。

扉が開く。

改札口のそばに、葛西が立っていた。胸には小さな駅員の名札があった。

「切符をお持ちの方から、どうぞ」

老婦人が、佳乃のほうを見た。

手に提げた買い物袋には、今はもうないスーパーの名前が印刷されている。佳乃が箱の中のレシートの切符を思い出すと、その一枚が淡く光った。

「月の飴を、買い忘れたの」

老婦人はそれだけ言った。

佳乃は切符を取り出しかけた。

だが、葛西が静かに首を横に振った。

「お返しになる前に、ひとつだけ。返された時間は、受け取る側にも渡されます。今を生きる人が、知らずに済んだ痛みを持つこともあります」

佳乃の手が止まった。

「それでも、返すべきなんですか」

「それを決めるために、駅があります」

葛西は答えた。

佳乃は老婦人を見た。老婦人は不安そうに買い物袋を握っている。誰かを待たせている人の顔だった。

父に会えるかもしれない。自分の切符を使えば、ずっと避けてきた時間へ行けるかもしれない。

それでも、佳乃はレシートの切符を手に取った。

「この方を先に」

葛西は帽子を取り、深く頭を下げた。

佳乃と老婦人は列車に乗った。

列車は、月明かりの上を走っていた。

窓の外には海があり、海の向こうには見知らぬ町の灯りが揺れている。車内は古い木の床で、青い座席が向かい合っていた。天井の扇風機は止まり、広告の枠には何も入っていない。

老婦人は佳乃の向かいに座った。

「お名前を聞いてもいいですか」

佳乃が尋ねると、老婦人は少し考えた。

「フミ。相馬フミ」

「誰に会いに行くんですか」

「透に」

佳乃は息をのんだ。

「透?」

「小さな男の子。泣き虫で、甘いものが好きだった」

佐伯透。

役場の後輩と同じ名前である。けれど、よくある名前だと佳乃は自分に言い聞かせた。

窓の外が明るくなった。

そこには昔の商店街があった。雨上がりの道に、夕方の光が反射している。浜吉マートというスーパーの前で、若い頃のフミが買い物袋を抱えている。

店先に、小さな男の子がしゃがんでいた。

「透、帰るよ」

若いフミが言う。

男の子は首を横に振った。

「月の飴、買ってない」

「ああ、そうだったね」

フミはもう一度店へ戻ろうとした。けれど店のシャッターは半分下りている。店員が申し訳なさそうに頭を下げた。

「明日、買ってくるから」

「今日がいい」

「じゃあ、駅まで迎えに来てくれたら、月を見ながら帰ろう」

男の子は少しだけ機嫌を直した。

場面が揺れた。

次に見えたのは、月畳駅へ続く坂道だった。フミは買い物袋を提げて歩いている。袋の中には、月の飴は入っていない。代わりに、黄色い包装紙の小さな菓子が一つだけある。

坂の途中で、フミは立ち止まった。

胸を押さえ、道端に座り込む。買い物袋を抱えたまま、駅の方を見る。そこに男の子の姿はない。

「私はね」

向かいのフミが言った。

「飴を買い忘れたんじゃないの。帰り忘れたの」

佳乃は何も言えなかった。

「透は、怒ったかしら」

「わかりません」

「そうね」

フミは静かに微笑んだ。

「でも、怒ってくれていたなら、少し安心する。待っていた証拠だから」

列車がゆっくり止まった。

扉の向こうに、現在の月畳駅が見えた。ホームの上に、子どもの頃の佐伯透が立っている。泣いてはいない。ただ、誰かを待つ顔をしていた。

フミは買い物袋から黄色い包みを取り出した。

「これ、渡してもらえる?」

佳乃が受け取ろうとした瞬間、黄色い包みは小さな紙片に変わった。古いレシートの裏に、震える字で書かれている。

透へ
月は買えなかったけれど、見て帰るつもりでした。

それだけだった。

フミは列車を降りた。

月明かりの中で、彼女の姿は少しずつ薄くなった。最後に、小さな男の子へ手を伸ばすような仕草をして、消えた。

目を開けると、佳乃は月畳駅の待合室にいた。

箱の中の切符は、十一枚になっていた。

翌朝、佳乃は役場で佐伯を呼び止めた。

「佐伯くん、おばあさんに、相馬フミさんって方はいる?」

佐伯の表情が変わった。

「父方の祖母です。俺が小さい頃に亡くなりました。どうしてですか」

佳乃は迷った。

葛西の言葉が頭をよぎる。返された時間は、受け取る側にも渡される。知らずに済んだ痛みを持つこともある。

それでも、紙片をなかったことにはできなかった。

「駅に、残っていたの」

佳乃はそれだけ言い、紙片を渡した。

佐伯はしばらく黙って読んでいた。

「これ、祖母の字です」

「覚えてるの?」

「写真の裏に、よく書いてあったから」

佐伯は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「俺、祖母が買い物の途中で倒れたってことしか知らなくて。小さかったから、ずっと、自分が駄々をこねたせいだと思ってました」

佳乃は返事をしなかった。

佐伯は紙片を丁寧に畳んだ。

「月を見て帰るつもりだったんですね」

その声は、救われた人のものにも、もう一度傷ついた人のものにも聞こえた。

月畳駅の話は、少しずつ人の間に広がった。

もちろん、列車や切符のことを佳乃が話したわけではない。佐伯も何も言わなかった。ただ、古い駅に残された思い出を集めるため、町民に聞き取りを始めたのである。

すると、驚くほど多くの話が集まった。

初めて一人で列車に乗った日。
見送りに行ったまま、泣けなかった日。
結婚する相手を待った日。
町を出るつもりで、結局出られなかった日。
帰ってきたのに、ただいまと言えなかった日。

駅は、ただの交通の場所ではなかった。

誰かが何かを待つための場所だった。

佳乃と佐伯は、月畳駅を大きな観光施設にするのではなく、待合室だけを保存し、週末の午後に開放する計画を作った。町民の思い出を小さく展示し、朗読会や写真展を開く。商業化は最小限にする。派手な看板も、強い照明も置かない。

だが、計画はすぐに止まった。

久世が、強く反対したのである。

「思い出を集める場所にするのは危険です」

会議で、久世は静かに言った。

「古い駅にきれいな言葉を並べれば、人は勝手に美談にします。でも、あそこには美談だけが残っているわけじゃない」

町長が眉をひそめた。

「久世さん、それはどういう意味ですか」

久世は少し黙った。

「私の母は、あの駅で父を待ち続けました。父は町を出たまま戻らなかった。母は毎月、駅へ行っていました。廃線になってもです。子どもの私から見れば、あの駅は母を縛る場所でした」

佳乃は久世を見た。

久世の声は荒くなかった。けれど、押し殺したものがあった。

「人は、忘れなければ進めないこともあります。駅を残せば、町はまた人を過去へ向かわせる。三浦さんの計画は優しい。でも、優しいものがいつも人を救うとは限らない」

会議室は静まり返った。

佳乃はすぐに反論できなかった。

葛西の言葉と、父の手紙が重なる。

知ることが、いつも救いになるとは限らない。

その夜、佳乃は月畳駅へ行った。

待合室は暗く、時計の音だけが響いている。箱の中には十一枚の切符がある。その中で、赤い糸の切符が淡く光っていた。

佳乃は触れなかった。

久世の母の切符かもしれない。そう思ったからである。

もしそうなら、返すべきなのか。
久世が望んでいない過去を、こちらの判断で渡していいのか。
父は、何を基準に切符を返していたのか。

「迷っておられますね」

葛西の声がした。

改札口のそばに、彼が立っていた。

「葛西さんは、どうしてここにいるんですか」

佳乃は初めて、そう聞いた。

葛西は少し困ったように笑った。

「昔、この駅で駅員をしておりました」

「生きていた頃に?」

「ええ。廃線の日、最後の列車を見送りました。そのとき、乗るはずだった人が一人、乗れませんでした」

「誰ですか」

葛西は答えなかった。

ただ、ホームの端を見た。

「私は、その人を待つことにしたのです。駅員とは、最後の一人が乗るまで駅を閉めないものですから」

「その人は、まだ来ないんですか」

「来たのかもしれません。けれど私が気づかなかったのかもしれません」

佳乃は、葛西がただの案内人ではないことを知った。

彼もまた、駅に残された時間の一部なのだ。

「切符は、返すべきですか」

佳乃が尋ねると、葛西は首を横に振った。

「返すべき、という切符はありません」

「では、どうすれば」

「待つのです」

「待つだけですか」

「待つことは、何もしないことではありません」

葛西は壁時計を見上げた。

「待っている間に、人は変わります。受け取る準備ができることもある。受け取らないと決めることもある。そのために時計があるのです」

佳乃は箱を閉じた。

その日は、列車に乗らなかった。

保存計画の二度目の会議は、前よりも重かった。

久世は、駅舎の一部を保存しながらも、待合室の展示計画を取りやめる案を出した。建物は商業施設として活用し、過去の記憶を前面に出さないほうがいいという提案だった。

「駅を残すなら、未来のために残すべきです」

久世は言った。

「過去に人を戻す場所ではなく、今の人が使う場所にする。私は、そのほうが健全だと思います」

佳乃は資料を閉じた。

「私も、過去に戻る場所にしたいわけではありません」

会議室の視線が集まる。

「ただ、過去をなかったことにする場所にもしたくありません」

久世の表情が少し動いた。

佳乃は続けた。

「月畳駅には、いい思い出だけではなく、寂しさや後悔も残っています。それを飾るつもりはありません。美談にするつもりもありません。ただ、そういう時間があったことを、静かに置いておく場所にしたいんです」

「置いておくだけで、人は縛られます」

久世が言った。

「縛られる人もいると思います」

佳乃はうなずいた。

「だから、展示は押しつけない。誰かの思い出を名前つきで並べることもしない。読みたい人だけが読める小さな記録にします。駅に来た人が、自分の時間を持ち帰るか、置いていくかを選べるようにしたい」

久世は黙った。

「忘れることも、選択のひとつです。でも、忘れたふりをし続けることだけが前に進むことだとは、私は思いません」

佳乃の声は震えていた。

けれど、最後まで言った。

「静けさだけでは建物は守れません。でも、収益だけでも場所は守れません。私は、月畳駅を観光施設ではなく、町の待合室として残したいです」

会議は結論を出さずに終わった。

廊下で、久世が佳乃を呼び止めた。

「三浦さん」

「はい」

「私の母の話を、調べましたか」

「いいえ」

「では、なぜあんなことを言えるんですか」

佳乃は少し考えた。

「私も、待たせたままにしている人がいるからです」

久世は何も言わなかった。

その顔は、怒っているようにも、疲れているようにも見えた。

次に月が畳まれた夜、久世が駅に来た。

佳乃は待合室で時計を見ていた。箱の中の赤い糸の切符が、弱く光っている。ホームにはまだ誰もいない。

扉が開き、久世が立っていた。

「ここに来れば、何かわかる気がしました」

彼はそう言った。

「母のことを、ずっと腹立たしく思っていたんです。戻らない人を待ち続けて、子どもの私を見ていなかった。そう思っていました」

佳乃は黙って聞いた。

「でも、本当は違うのかもしれない。そう考え始めたら、今度は怖くなった。母が本当に待っていたものを知ってしまったら、怒っていた自分をどうすればいいのかわからない」

赤い糸の切符が、箱の中でひとつ強く光った。

佳乃は箱を開けた。

「これが、久世さんのものかどうかはわかりません」

「何ですか、それは」

「置いていかれた時間です」

普通なら、信じられるはずがない。

けれど久世は笑わなかった。切符を見つめたまま、顔色を失っていた。

ホームの向こうで、列車の音がした。

葛西が改札口に現れた。

「乗るかどうかは、ご本人がお決めください」

久世は長い間、赤い糸の切符を見ていた。

やがて、首を横に振った。

「今日は、乗りません」

葛西は静かにうなずいた。

「それもまた、ひとつの選択です」

列車はホームに止まり、誰も乗せずに扉を閉めた。

月明かりの上を、音もなく遠ざかっていく。

久世は待合室のベンチに腰を下ろした。

「乗らないと決めたら、少し楽になりました」

「そうですか」

「たぶん、私はまだ怒っていたいんです」

佳乃はうなずいた。

「怒っていてもいいと思います」

久世は小さく笑った。

「三浦さんに言われると、不思議とそう思えますね」

その夜、久世は駅を残すことに反対しないと言った。

ただし、条件があった。

「この場所を、きれいな思い出だけの箱にしないでください」

佳乃は答えた。

「しません」

佳乃が自分の切符を手にしたのは、夏の初めだった。

雨色の切符である。

その夜、海は静かだった。月明かりは水面に伸び、何枚もの薄い布のように折り重なっている。

列車に乗ると、車内には誰もいなかった。

窓の外に、昔の商店街が映った。三浦時計店の看板がある。ガラス戸の向こうで、父が作業台に向かっていた。

小学四年生の秋である。

佳乃は友人と隣町の図書館へ行く約束をしていた。父が月畳駅まで送ってくれるはずだった。けれど、朝になって急な修理の依頼が入った。

「少し待ってくれ。すぐ終わる」

父はそう言った。

佳乃は待った。

十分。二十分。三十分。

約束の時間は過ぎた。雨が降り出した。佳乃は腹を立て、リュックを背負って一人で家を出た。駅に着いたとき、列車はすでに出たあとだった。

その夜、佳乃は父と口をきかなかった。

父は謝った。

「悪かったな」

佳乃は言った。

「もういい」

それだけである。

たったそれだけのことだった。

けれど、窓の外で父は店を飛び出していた。傘も差さず、工具箱を抱え、雨の坂道を走っている。ホームに着いたとき、列車はもういなかった。

父はホームの端に立ち尽くした。

その顔を、佳乃は初めて見た。

約束を破った父の顔ではなかった。小さな娘が、自分を待つことをやめた瞬間を見てしまった人の顔だった。

車内の座席に、小学生の佳乃が座っていた。

赤いリュックを抱え、唇を強く結んでいる。

「お父さんは、時計のほうが大事なんだ」

小さな佳乃が言った。

大人の佳乃は隣に座った。

「そう思ったよね」

「違うの?」

佳乃は答えられなかった。

違う、と言いたかった。父は不器用だっただけだ。仕事を放っておけなかっただけだ。けれど、その日傷ついた子どもに向かって、そんな説明をしても意味がない。

「あなたが寂しかったのは本当」

佳乃は言った。

小さな佳乃は窓の外を見た。

「じゃあ、怒ってていい?」

「いい」

「ずっと?」

「ずっとは、疲れるかもしれない」

小さな佳乃は少し考えた。

「じゃあ、少し休む」

その言葉を聞いたとき、佳乃の中で何かがほどけた。

列車の奥で、工具箱の音がした。

父が座っていた。

亡くなる少し前の姿である。白髪が増え、背中は少し丸い。膝の上に工具箱を置き、両手で取っ手を握っている。

佳乃は向かいに座った。

「お父さん」

父は顔を上げた。

「待たせたな」

その一言で、佳乃は泣きそうになった。

父は多くを語らなかった。

ただ、工具箱を開けた。中には細かな部品と一緒に、小さな紙片が何枚も入っていた。

佳乃、今日はよく笑っていた。
佳乃が帰ってくる日は、家の音が少し明るい。
駅まで一緒に歩けばよかった。
言えばよかった。
でも、言うと引き止めてしまう気がした。

どれも、父が誰にも見せなかった言葉だった。

「こんなふうに思ってたなら、言ってよ」

父は小さくうなずいた。

「そうだな」

「言ってくれないと、わからないよ」

「そうだな」

言い訳はなかった。

長い謝罪もなかった。

それでよかった。佳乃は、すべてをきれいにしたかったわけではない。父の中にも言葉があったことを知りたかっただけだった。

小学生の佳乃が、父を見ている。

父はその子に向かって、ゆっくり頭を下げた。

「待たせて、悪かった」

小さな佳乃は、すぐには答えなかった。

やがて、赤いリュックを抱え直して言った。

「今度は、ちゃんと来て」

父はうなずいた。

「行く」

その約束が、もう果たされないことを、三人とも知っていた。

それでも、小さな佳乃は少しだけ肩の力を抜いた。

列車が揺れた。

窓の外で、月が一枚に戻っていく。

父の姿が薄くなりはじめた。

「佳乃」

「何」

「駅を残すなら、お前の時間で残しなさい」

「お父さんのためじゃなくて?」

父は首を横に振った。

「死んだ者のためだけに場所を残すと、生きている者が動けなくなる」

佳乃は久世の顔を思い出した。

「でも、忘れてしまうのも違う気がする」

「そうだな」

父は少し笑った。

「だから、時計がいる」

「待てるように?」

「そうだ」

父の声は遠くなっていく。

「止まるためじゃない。急ぐためでもない。待って、それから進むためだ」

父の姿は、雨の向こうへ溶けた。

最後に、小さな紙片だけが佳乃の手に残った。

佳乃が帰ってくる日は、家の音が少し明るい。

月畳駅の保存計画は、条件付きで通った。

大規模な観光施設にはしない。駅舎の補修は必要最低限。開放日は週末の午後だけ。展示は匿名の記録を中心にし、読むかどうかは訪れた人に委ねる。収益化のために、小さな飲み物の販売はするが、駅舎の雰囲気を変えるような装飾はしない。

久世の会社が、補修を引き受けた。

「壊すより、難しい仕事になりました」

久世はそう言った。

「嫌ですか」

佳乃が聞くと、久世は首を横に振った。

「いいえ。難しいほうが、たぶん合っています」

赤い糸の切符は、まだ箱の中に残っている。

久世はそれを知っている。だが、乗るとは言わない。佳乃も勧めない。いつか乗るかもしれないし、乗らないまま生きるのかもしれない。

どちらでもいいのだと、今の佳乃は思う。

駅は答えを出す場所ではない。

答えを急がずにいられる場所なのだ。

初めての一般開放の日、月畳駅には小さな案内板が立った。

月畳駅
かつて海辺の町と山あいの町を結んでいた小さな駅です。
今は列車こそ走っていませんが、ここには多くの人が待ち、見送り、帰ってきた時間が残されています。
思い出したい方も、忘れていたい方も、どうぞ静かにお過ごしください。

佳乃はその文章を何度も読み返した。

書きすぎていない。隠しすぎてもいない。ちょうどいいと思った。

夕方、見学者が帰ったあと、佳乃は一人でホームに出た。

海の上に月が昇っている。まだ満ちる前の細い月で、畳まれるには早い。線路は草の中に沈み、列車の来る気配はない。

それでも、佳乃にはわかった。

道は消えたのではない。

必要な夜にだけ、戻ってくるのだ。

待合室の中から、時計の音が聞こえる。

こち、こち、こち。

それは父の声にも、波の音にも似ていた。

佳乃は駅舎の扉を閉め、鍵をかけた。坂道を上る前に、もう一度だけ振り返る。

月畳駅は、夕暮れの中で静かに灯っていた。

誰かを急がせることなく、誰かを閉じ込めることもなく、ただ次に来る人のために、時間を進めていた。