夜明けの靴音
朝だけ開く不思議な靴屋を訪れた青年が、亡き母の靴紐を手がかりに、忘れていた場所へ歩き出す静かな現代ファンタジー。
町の東に、朝だけ開く靴屋があった。
看板には「暁靴店」と書かれている。古い木の看板で、雨の日には文字が少しにじんで見えた。店が開くのは夜明け前から午前七時までで、それ以外の時間はどれだけ戸を叩いても返事がない。
その靴屋には、少し変わった噂があった。
失くした場所へ行ける靴を売っている。
そう言う人もいれば、もう一度だけ会いたい人の近くまで連れていってくれるのだと言う人もいた。もちろん、ほとんどの人は笑って聞き流した。町には昔から、古い店にまつわる話がいくつもあった。雨の日にだけ棚の奥が増える古本屋。夜中にだけ海の匂いがする銭湯。そんな噂のひとつに過ぎない。
それでも、律はその靴屋の前に立っていた。
まだ空は暗かった。東の端に、薄い灰色が少しだけ混じり始めている。冬の終わりの朝で、息を吐くと白くなった。商店街のシャッターはすべて下り、街灯の明かりだけが濡れた石畳に伸びていた。
律は右手に、小さな紙袋を持っていた。
中には母の靴紐が入っている。
母が亡くなってから、三年が経っていた。律は三十歳になり、駅前の小さな設計事務所で働いている。特別に不幸というわけではない。仕事もある。住む部屋もある。ときどき一緒に食事をする友人もいる。
ただ、心のどこかに、ずっと片づけられない靴箱のような場所があった。
母はよく歩く人だった。
近所の川沿いを歩き、坂の上の公園を歩き、隣町の市場まで歩いた。電車に乗ればすぐの距離でも、天気がよければ歩いて行った。歩けば、季節がよくわかるから。母はそう言っていた。
亡くなる少し前、母は律に一足の革靴を見せた。深い茶色の、柔らかそうな靴だった。まだ履き慣れていないのか、靴紐だけが少し固そうに結ばれていた。
「これで、最後にもう一か所だけ行きたいところがあるの」
母はそう言った。
「どこ」
律が聞くと、母は笑って答えなかった。
その一週間後、母は急に入院し、そのまま戻らなかった。靴は玄関の隅に残された。けれど、いつのまにか片方の靴紐だけがなくなっていた。葬儀のあと、律は靴箱の奥でその靴紐を見つけた。なぜそこにあったのかはわからない。
それから三年、律はそれを捨てられずにいた。
暁靴店の引き戸には、古い真鍮の取っ手がついていた。律が手をかけると、戸は思ったより軽く開いた。
中から、かすかな革の匂いがした。
店内は狭かった。
壁一面に靴が並んでいる。革靴、運動靴、子ども用の赤い長靴、白い布靴、踵のすり減った登山靴。売り物というより、誰かが置いていった記憶を並べているようだった。
奥の作業台に、老人が座っていた。
白い髪を後ろでひとつに結び、丸い眼鏡をかけている。手元では、黒い革靴の底を磨いていた。律が入っても驚いた様子はない。
「おはようございます」
老人が言った。
声は静かで、朝の空気によく馴染んでいた。
「おはようございます」
律は紙袋を握りしめたまま、店の中央に立った。
「靴をお探しですか」
「……はい。たぶん」
「たぶん、ですか」
老人は少し笑った。
「ここに来る人は、だいたいそう言います」
律は紙袋から靴紐を取り出した。薄茶色の紐だった。片方だけで、端が少しほつれている。
「母のものです。母が、最後にどこかへ行きたいと言っていました。でも、場所を聞けなかった」
老人は靴紐を受け取ると、指先でそっと伸ばした。紐の長さを測るようでもあり、そこに残った時間を確かめるようでもあった。
「この紐の相方は」
「靴に残っています。家に」
「では、靴も持ってくればよかった」
「そう思ったんですが」
律は言葉を切った。
家を出る前、母の靴を持っていこうとした。けれど、どうしても手に取れなかった。あの靴を外へ持ち出してしまったら、母が帰る場所まで失われる気がした。
老人は責めるような顔をしなかった。
「靴は、持ち主の足を覚えています。靴紐は、その足が向かおうとした先を少しだけ覚えている」
「本当に、行けるんですか」
「行ける、という言い方は少し違います」
老人は作業台の下から、小さな木箱を取り出した。中には、片方ずつの靴紐が何本も入っていた。赤、青、黒、白。古びたものもあれば、新しいものもあった。
「人は、失くした場所へまっすぐ戻ることはできません。時間は片道の道ですから。ただ、どこかの朝に残った足音を、少しだけ聞くことはできます」
老人は壁の棚から一足の靴を下ろした。
それは、律が見覚えのある靴だった。
深い茶色の革靴。母が最後に買った靴と、よく似ていた。けれど、まったく同じではない。こちらの靴は少し細身で、踵に小さな傷があった。
「履いてみますか」
「これは、母の靴ではありません」
「あなたの靴です」
「僕の?」
「行くのは、お母さまではありませんから」
律は戸惑いながら靴を受け取った。革は手に吸いつくように柔らかい。靴紐は片方だけ通されていなかった。老人は律の持ってきた紐を差し出した。
「自分で結んでください。強く結びすぎないように」
律は椅子に腰かけ、靴を履いた。
不思議なことに、足にぴったり合った。新しい靴なのに、ずっと前から履いていたような感覚があった。靴紐を通し、蝶結びにする。母がよくしていた結び方を思い出した。最後に輪を少し小さくする。歩いているうちにほどけにくいのだと、子どものころに教えられた。
「店を出たら、東へ歩いてください」
老人が言った。
「東?」
「朝が来る方です。途中で誰かに声をかけられても、振り返らないこと。靴音が止まったら、そこが今日の行き先です」
「戻ってこられますか」
「朝のうちは」
老人は壁の時計を見た。
針は五時二十分を指していた。
「七時を過ぎると、ただの道になります」
律は立ち上がった。足元で靴が小さく鳴った。こつん、という音だった。
店を出ると、空は少し明るくなっていた。
律は東へ歩いた。
商店街を抜ける。パン屋の前を通ると、まだ開いていない店の奥から小麦の匂いがした。新聞配達の自転車が角を曲がり、細い影を残して消えた。
靴音が、いつもよりはっきり聞こえた。
こつん。こつん。こつん。
最初は普通の音だった。けれど歩くうちに、もうひとつ別の音が重なり始めた。軽く、少し急ぎ足の音である。母の歩き方に似ていた。踵からではなく、足の裏全体でやわらかく地面を踏む。
律は息を止めた。
振り返りたくなった。
しかし老人の言葉を思い出し、そのまま歩き続けた。
東へ向かう道は、いつのまにか見覚えのない通りになっていた。ビルの隙間が広がり、古い住宅が並び、やがて川沿いに出た。川面には薄い霧がかかっている。橋の向こうで、空が淡く色づいていた。
こんな場所、町にあっただろうか。
律は考えたが、答えは出なかった。町は長く住んでいても、知らない道をいくつも隠している。母なら、こんな道も知っていたかもしれない。
靴音はまだ続いていた。
こつん。こつん。
もうひとつの足音が、少し前を歩いているように聞こえる。律は追いつこうとして足を速めた。すると足音も同じだけ速くなった。
「待って」
思わず声が出た。
朝の川沿いに、その声だけが小さく落ちた。
返事はない。
その代わり、風が吹いた。冬の終わりの冷たい風ではなく、どこか春に近い風だった。川の向こう岸に、白い花をつけた木が一本立っていた。梅か桜か、遠くてよくわからない。
律は橋を渡った。
橋の中央まで来たとき、足音が一度だけ止まった。
律も立ち止まった。
川の上に、朝の光が細く差していた。水面が銀色にほどけ、霧がゆっくり薄くなっていく。橋の欄干には、小さな鳥が一羽とまっていた。鳥は律を見ても逃げず、首を傾げるだけだった。
そのとき、律は母の声を聞いた気がした。
「急がなくていいのよ」
はっきりした声ではない。風の音と水の音が、偶然その形になっただけかもしれない。それでも律には、母の声に聞こえた。
急がなくていい。
母はよくそう言った。
律は子どものころから、何をするにも急ぐ癖があった。歩くのも、食べるのも、話すのも早かった。待つことが苦手で、電車が少し遅れただけで苛立った。
母はいつも少し後ろから歩いてきて、笑いながら言った。
「そんなに急いだら、道に置いていかれるわよ」
道に置いていかれる。
その言い方が不思議で、律はよく聞き返した。置いていかれるのは人の方じゃないのか、と。母はそのたびに、どうかしらね、と言って笑った。
橋を渡り終えると、道はゆるやかな坂になった。
足音がまた進み始めた。
坂の上には、小さな公園があった。
遊具は少なく、古いベンチが二つと、低いすべり台があるだけだった。公園の奥には、大きな木が立っている。葉はまだ少ない。枝の先に、朝の光が引っかかっていた。
靴音は、その木の前で止まった。
律はゆっくり近づいた。
木の根元に、小さな石が置かれていた。誰かが腰かけるために運んだのかもしれない。その石の上に、一枚の葉が載っていた。冬を越した枯れ葉で、端が丸く縮れている。
律は周囲を見回した。
誰もいなかった。
母が最後に来たかった場所は、ここなのだろうか。
見覚えはなかった。思い出もない。母とこの公園に来た記憶は、少なくとも律にはなかった。
「どうして、ここなんだ」
声に出すと、答えるように木の枝が揺れた。
律はベンチに座った。靴の先に、朝露を含んだ土がついていた。胸の奥にあった期待が、少しずつしぼんでいくのを感じた。母の秘密がわかると思っていた。母が最後に見たかった景色に立てば、三年間わからなかった何かがはっきりすると。
けれど、そこにあったのは静かな公園だけだった。
遠くで電車の音がした。町が起き始めている。どこかの家で雨戸が開き、犬が短く吠えた。
律は紙袋を取り出した。もう空になっている。母の靴紐は、今、自分の靴に結ばれている。
その結び目を見ているうちに、ふいに思い出した。
中学生のころ、母と大きな喧嘩をしたことがある。
理由はもう曖昧だった。進路のことだったか、部活を辞めることだったか。律は母にひどい言葉を投げた。母のように、のんびり歩いているだけの人間にはわからない。たしか、そんなことを言った。
母は怒らなかった。
ただ、少し困った顔をしていた。
その翌朝、律は学校に行くふりをして家を出たが、途中で引き返し、この公園のような場所に来た。ベンチに座り、何時間も過ごした。母に見つけてほしいような、見つけてほしくないような気持ちで。
夕方近く、母は本当にやって来た。
息を切らしてはいなかった。いつもの調子で歩いて来て、律の隣に座った。そして何も言わず、靴紐を結び直してくれた。律の靴紐はほどけて、泥で汚れていた。
「帰ろうか」
母はそれだけ言った。
そのときの場所だった。
律は立ち上がった。
忘れていたのではない。思い出さないようにしていただけだった。母が最後に行きたかった場所は、母自身の思い出の場所ではなかった。律が一度、帰れなくなりかけた場所だった。
木の下に立つと、もうひとつの足音がすぐそばに聞こえた。
こつん。
たった一度だけ。
律は目を閉じた。
「ごめん」
声は小さかった。
「ずっと、謝れなかった」
風が通り抜けた。返事はなかった。けれど、胸の奥にあった硬いものが、少しだけほどけた気がした。
急がなくていい。
また、その言葉が聞こえた。
律は目を開けた。朝日は木の向こうから昇り、公園の土を淡く照らしていた。枯れ葉の上に、光が乗っている。
時計を見ると、六時四十分だった。
戻らなければならない。
帰り道は、行きより短く感じた。
同じ道を歩いているはずなのに、川沿いの霧は消え、住宅の窓には朝日が映っていた。新聞を取りに出た老人が、律に軽く会釈した。パン屋のシャッターは半分上がり、焼きたての匂いが通りに流れていた。
暁靴店に着いたとき、時計は六時五十八分だった。
老人は作業台で、別の靴を磨いていた。
「間に合いましたね」
「はい」
律は靴を脱いだ。足から離れた瞬間、靴は少しだけ古びたように見えた。母の靴紐は、もうほどけかけている。
「場所は見つかりましたか」
老人が尋ねた。
律はうなずいた。
「忘れていた場所でした」
「そういう場所の方が、よく足音を残します」
律は靴紐を外そうとした。だが老人が手で制した。
「そのままでいいでしょう」
「でも、これは母の」
「もう、あなたの足も覚えました」
老人は靴を受け取り、棚には戻さず、作業台の横に置いた。
「この靴は?」
「しばらく預かります。必要な朝が来たら、また履けます」
「また来てもいいんですか」
「朝なら」
老人は静かに言った。
「ただし、同じ場所へは二度行けません」
律は少し考えた。
「それでいいです」
店の外が明るくなっていく。商店街の向こうで、人の声が増え始めていた。七時を告げる時計の音が、どこか遠くから聞こえた。
老人は引き戸に手をかけた。
「お母さまの靴は、まだ玄関に?」
「はい」
「では、今日帰ったら、少し外に出してあげるといい。日なたに置くだけで十分です」
律はその言葉に、ゆっくり頭を下げた。
店を出ると、空はすっかり朝になっていた。
家に帰る途中、律はいつもよりゆっくり歩いた。駅へ向かう人たちが横を通り過ぎていく。自転車がベルを鳴らし、バスが停留所に滑り込む。町は忙しく動き出していた。
それでも律は、急がなかった。
アパートに戻ると、玄関の隅に母の靴があった。三年間、同じ場所に置かれていた靴である。律はそれを両手で持ち上げた。思っていたより軽かった。
ベランダに出て、朝日の当たる場所にそっと置いた。
片方の靴には、まだ靴紐が通っている。もう片方には何もない。律はしばらく迷ってから、自分の靴から予備の紐を外し、母の靴に通した。色は少し違っていた。けれど、不思議と悪くなかった。
結び目を整えると、風が吹いた。
靴の影が、ベランダの床に小さく伸びた。その影は、今にもどこかへ歩き出しそうに見えた。
律はその隣に腰を下ろし、しばらく朝の光を見ていた。
町のどこかで、誰かの靴音が始まっていた。